藤本晧司先生が亡くなられました。
一昨年の年賀状に「小生も八十歳になりました。」
「がんで入院中です。」とありましたので、
心配していた矢先のことでした。
藤本先生にはじめてお会いしたのは、
私が昭島市立昭和中学校に入学した
今から三十六年前のことです。
藤本先生は、熱血漢の体育の先生として、
校内暴力で荒れた当時の昭和中学校を
立て直そうと奮闘しておりました。
現在の昭和中学校からは想像もできないと思いますが、
廊下のいたるところに煙草の吸い殻が散乱し、
毎日のように校舎のどこかの窓ガラスが割れ、
校庭をバイクが走り回っていた時代です。
生半可な覚悟では、教師は務まらなかったと思います。
藤本先生は、体操選手のように筋肉隆々でしたが、
決して生徒を叩いたり、理不尽に叱ったりしませんでした。
いつも笑顔で、ちゃんとこちらの話を聞いてくれるので、
どんなにいきがった不良少年たちでも、不思議と、
藤本先生の言うことなら素直に聞くのです。
そんな藤本先生に、魚釣りの話をしたことから、
キャンプに連れて行ってもらえることになりました。
藤本先生も釣りが大好きだったのです。
私は、三人の釣り友達と一緒に、
藤本先生の車で奥多摩に向かいました。
中学三年生の夏のことでした。
今では、学校の先生がその指導する何人かの生徒を、
学校の行事でもないのに泊りがけでどこかに連れて行くなんて、
はたしてできるでしょうか。
保護者から、不公平だとか、事故でもあったらどうするんだとか、
クレームがくるのを恐れてきっと何もできません。
でも当時の教師と保護者の信頼関係はそうではありませんでした。
私たち悪ガキ連中もまた、藤本先生を全面的に信頼していました。
林道に車をとめて、各自がキャンプ道具を背負い、
杉林の中の長い杣道を歩いて、ようやく山奥の渓流に到着しました。
丸木橋を渡って川沿いの小さな草地にテントを張り、
渓流でヤマメやイワナを釣りました。
はじめての渓流釣りでしたが、それぞれが釣果に恵まれ、
各自夕飯のおかずが確保できました。
ところが、火を起こしてご飯を炊き、
いよいよ楽しみにしていた食事だ、
というところで、激しい夕立が降り出してしまいました。
しばらくテントの中に入って雨をしのいでいましたが、
雨脚は次第に強くなり、止む気配を見せません。
川の水も濁って、少しずつ増水し始めました。
その時、藤本先生は決然と、撤収すると私たちに告げ、
降りしきる雨の中、黙々と片づけを始めました。
私たち四人も、ずぶ濡れになりながらそれを手伝い、
暗闇の林の中の長い登りを車まで戻りました。
車で近くの村まで走りましたが、
山奥の小さな集落のことゆえ、一軒の宿も無く、
藤本先生はどう話をつけたのか、村のお寺のお堂に
私たちは泊まることになりました。
近所の民家のお風呂をお借りして、
お堂に敷かれた布団に四人それぞれ入る頃には、
私たちは疲れてあっという間に寝入ってしまいました。
ただそれだけのことでしたが、藤本先生の思い出は、
私の中にずっと小さな炎となって燃え続けています。
私は今でも、休みの日にはひとりで山奥に行き、
釣りをしたり、水辺で眠ったりするのが好きです。
時々、雨に降られたりすると、この日のことを思い出します。
当時の親友たちとは疎遠になり、
連絡を取り合うこともありませんが、
藤本先生にだけは、三十六年間、
欠かさず年賀状を出し続けました。
藤本先生からもまた、
毎年必ず直筆の年賀状を頂きました。
けれども、卒業してからとうとう最後まで、
藤本先生と再会することはありませんでした。
先生の住まいのある瑞穂町とは、
車で三十分の距離ですから、
会おうと思えばいつでも会えたはずです。
十年ほど前でしょうか、藤本先生が一度だけ、
私に電話をかけてこられたことがあります。
酔っぱらっていたのでしょうか、
上機嫌な声で「たまには遊びに来いよ。」
とおっしゃって下さいました。
私も「はい、お会いして話したいことが沢山あります。」
と答えました。
それでも私は藤本先生に会いに行きませんでした。
私の中にいる藤本先生は、筋肉質の引き締まった体と、
黒くて太い眉毛でニコニコ笑っている姿のままです。
それは私の理想の先生像として、これから先も
ずっと私を叱咤激励し続けるでしょう。
自分のことを振り返れば、
これまで教えてきた生徒たちには、
本当に力不足で申し訳ないという後悔ばかりです。
もっともっと私自身が勉強しなければなりません。
今のままでは、藤本先生にあわせる顔がありません。
自分のもとを巣立っていった生徒たちと、
二度と再び出会うことがなくてもいい、
生徒の心の中に消えない炎を灯す先生になりたいと、
私は思います。
野津昌生
